デイケアとデイサービス

私の職場はデイ「ケア」です。リハビリや治療目的のお年寄りが中心です。一方、3Fにはデイ「サービス」があります。言葉は悪いですが、要するに託「老」所。
「サービス」の人とは関わることないですから、顔も名前もわかりません。

先日、入浴がすんだ利用者さんを「連れて帰って」と言われたんです。珍しく顔と名前がばっちり合いました。私はまだ利用者さんの顔はわかるけど名前は・・・というレベルですので、これが合ったということは「ケア」の人、と思って連れて行ったんです。

そしたら、「その人、サービス!」スタッフに爆笑されました。

なんでそうなったのか考えてみたんですが、前2日、連続して同じ方面の送迎車に乗って、その人の隣でずーっと喋ってたんですよ。だから顔も名前も記憶にあったんです。・・・記憶の引き出しが間違ってました・・・(T_T)

この記事へのコメント

2010年03月27日 08:36
 私も2か月後には後期高齢者。今は元気ですが、いつ笛吹きお遍路さんのお仲間にお世話になるかわかりせん。それにつけてもいつも連想することがあります。

 須原一秀という哲学者がいました。その死後出版された「自死という生き方」によると「ここ半年ほど週に4日以上ジム通いを続けているので体は快調で、毎日のビール、酒、飯が旨い。これまで病気らしい病気をせず、仕事で疲れることもなかった。隣室で妻が楽しそうに鼻歌を歌っている。自分は陽気なたちで人を集めて宴会をするのが好きだ。大学(立命館大)の講義は先日終えた」。なんとこの人が半年後の2006年4月初め、65歳である県の神社の裏山で縊死。失敗を絶対防ぐため、頸動脈は自ら刃物で切り裂いてあった。警察の慎重な調べでも、一般的な自死の原因はついに見つからなかった。それも当然で、大きな失敗や挫折、不治の病、うつ病などのいずれからも遠い、かねて覚悟の「哲学的事業」だったからです。晴朗で健全なまま、平常心で決行される自死があり得る。須原氏はその証明を、現代における哲学者の仕事と考えていたのです。さらに氏の自死論「新葉隠」は、自らの老い衰えを拒み、自由意思で死を選ぶのを肯定的に受容することを、世の中全体に向かって要求しています。

 自分にこんな真似が出来るかなぁ、出来ねぇだろうなあ、と何度自問自答したことでしょう。

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